今日4月7日は、『赤いろうそくと人魚』 『野ばら』 『月夜とめがね』 など1000編近い童話を著した小川未明が1882年に生まれた日です。

未明は、新潟県高田市の旧士族で神道の修行者のひとり息子として生まれました。子どもの頃に、祖母からさまざまなおとぎ話を聞かされて育ちますが、小学校も中学校も卒業しないまま19歳の時に上京、創立してまもない自由な雰囲気のあった東京専門学校(早稲田大学の前身)に入学し、坪内逍遙や小泉八雲らに学びました。

21歳の頃から本格的文学活動を始め、在学中に書いた小説のロマンチックな傾向を逍遙らが認め、23歳で卒業後作家としての地位を確立するのに成功しました。

しかし、20代後半から30代半ばまでは貧困に苦しんだために、社会主義的な傾向を強め、労働文学の雑誌に投稿したり、日本社会主義同盟の創立にも参加しました。

36歳の時、大正デモクラシー思潮に支えられて鈴木三重吉の『赤い鳥』が創刊されました。未明も以前に童話集『赤い船』を書いていましたが、これをきっかけに本格的に童話を書くようになり、やっと活躍の場を見いだすことができました。

39歳の時、東京朝日新聞に発表した『赤いろうそくと人魚』が評判となり、それからは童話ひとすじにおよそ800編もの作品を書き、日本児童文学界最大の存在となりました。

代表作『赤いろうそくと人魚』は、こんな内容です。

北の海に人魚が住んでいました。その人魚は冷たい海で暮らすのを不幸に思い、これから生まれる子どもには幸福になってもらいたいと、陸に上がって、ある神社の石段に女の赤ちゃんを産みおとしました。

町のろうそく屋のおばあさんに拾われて育てられた人魚の娘は、少しずつ大きくなって美しい少女になり、おじいさんのこしらえる真っ白いろうそくに、赤い絵の具で、魚や貝や海草を上手に描くようになっていました。

「絵のついたろうそくをおくれ」朝から晩まで子どもや大人が店先に買いにきます。やがて、そのろうそくをつけてお宮参りすると、船が沈まないと大評判になりました。

ある日、南の国から香具師(やし)がやってきて、娘が人魚であることを知りました。そこで娘を買いとって南の国へ連れて行き、見世物にしようと考えたのです。老夫婦は初めのうちはもちろん断っていましたが、しだいに大金にまどわされて鬼のような心になって、娘を売ることにしたのです。香具師は猛獣を入れるような鉄のおりに娘を入れるといいます。娘は泣きながら、自分の悲しい思い出の記念にと真っ赤にぬりたぐったろうそくを2、3本残して、連れていかれてしまったのでした。

その夜、ろうそく屋の戸をトントンとたたく音がした。おばあさんが出てみると、髪をぐっしょりぬらした青白い女が立っていました。「赤いろうそくを一本ください」。おばあさんは娘が残した最後のろうそくを女に売りました。

女が帰ってから、お金をよく見ると貝がらなのです。怒ったおばあさんが外に飛び出すと、どしゃぶりの雨が降りだし、たちまち嵐となりました。嵐はますますひどくなって、娘のおりを積んだ船も難破してしまいました……。

未明は、「日本のアンデルセン」「童話の神様」などと讃えられた時期もありましたが、一部の文学者から痛烈に批判され、いまだに評価が二分されています。しかし、巌谷小波の「おとぎ話」を「童話文学」に高めた功績は高く評価されています。


「4月7日にあった主なできごと」

1133年 法然誕生…平安時代末期から鎌倉時代初期の僧侶で「浄土宗」を開いた 法然 が生まれました。

1506年 ザビエル誕生…1549年、日本に初めてキリスト教を伝えたスペインのイエズス会宣教師 ザビエル がフランスとスペインとの国ざかいのナバラ王国(1512年にスペインにほろぼされた)に誕生しました。

1894年 宮城道雄誕生…『春の海』など、琴を主楽器とする日本特有の楽曲(箏曲<そうきょく>)の作曲者、演奏家として世界に名を知られた 宮城道雄 が生まれました。

1945年 戦艦大和撃沈…大日本帝国海軍が建造した排水量6万8千トンという当時世界最大の戦艦「大和(やまと)」は、この日沖縄にむけて出撃途上、屋久島沖でアメリカ航空機部隊386機の集中攻撃を受けて3000人の将兵とともに、海底深く沈没しました。

1947年 フォード死去…流れ作業による自動車の大量生産を成功させ、世界一の自動車会社を創立した フォード が亡くなりました。