今日8月7日は、『ギーターンジャリ』の詩でアジア初のノーベル文学賞を受賞し、東洋最大の詩人と讃えられたタゴールが、1941年に亡くなった日です。

 
インドの偉大な詩人ラビンドラナート・タゴールは、1861年に、インド北東部ベンガル州のカルカッタで生まれました。父は、たいへん信仰心が深く、人びとから聖人とあおがれた貴族でした。

14人兄弟の末っ子だったタゴールは、たいへんあまえんぼうでした。規則にしばられるのが大きらいで、学校や家庭教師をいやがり、家の人たちをずいぶんこまらせました。

その反面、自分のすきなことにはむちゅうになり、とくに自然のなかでいろいろなことを考えているときは、時間のたつのも忘れてしまうほどでした。8歳をすぎたころから、自然を愛するあたたかい詩を作りはじめました。15歳で詩集『野の花』をまとめたタゴールは、はやくも詩作の才能を注目され、ベンガルの詩人とよばれるようになりました。

「農民たちは、あまりにも貧しく、みじめすぎる。農民をすくわなければ、インドの国はよくならない」

30歳のとき、父に大きな農場のせわをまかせられて初めて身近に感じたのが、めぐまれない農民や暗い社会の問題でした。心を痛めたタゴールは、やがて村の子どもたちのために野外学校を開きました。また、そのころインドを支配していたイギリスがベンガル州を2つに分けようとしたときには、人びとの先頭にたって反対運動を起こし、インド独立のために戦いました。

運動は成功しました。しかし、各地で起こった闘争では、おおくの人がとらえられ、命をおとしました。

「みにくい政治にかかわるのは、もうたくさんだ」

タゴールは、独立運動から身をひき、真実に生きる人間のすがたをもとめて、清らかな詩の世界にひたるようになりました。

1913年、自分の心の苦しみを告白し、神への祈りをつづった詩集『ギーターンジャリ』によって、東洋で初めて、ノーベル文学賞を受賞しました。こののちタゴールは、世界の国ぐにをまわり、人間の罪や運命を見つめた詩や小説や劇を通じて、世界平和のための国際協力の大切さをうったえつづけました。

日本へも人類愛の意義を説くために、4度おとずれました。しかし、日本が中国へ戦争をしかけたときには、日本をはげしくひなんしました。

タゴールは、村の片すみで始めた学校を、すべての財産を投げだしてりっぱな大学に育てあげ、1941年に80歳の生涯を終えました。いま、タゴールの詩の1つは、インド国歌となって、人びとに口ずさまれています。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで公開中)14巻「エジソン・ゴッホ・シートン」の後半に収録されている7編の小伝の一編「タゴール」をもとに記述したものです。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、タゴールの代表的詩集『ギーターンジャリ』(ギタンジャリ)103章からなる全文(高良とみ訳)を公開しています。