今日5月21日は、甲斐の武田勝頼と、織田信長・徳川家康軍との間で、三河の長篠城をめぐる戦いが、1575年にあった日です。

この戦いの2年ほど前、武田家の家臣だった奥平家は、武田信玄 の死後まもなく、徳川方へ寝返りました。徳川家康 は武田家から手に入れたばかりの長篠城を奥平貞昌に配したため、1575年4月、武田勝頼は1万5000人の大軍を率いて長篠城を包囲しました。そして、5月8日にこの城を攻め立てました。貞昌は500人というわずかな兵で持ちこたえていましたが、兵糧蔵を落とされてしまい、数日以内に援軍が来なければ落城という状況に追いつめられていました。

その間に、鳥居強右衛門(とりい すねえもん)という家臣は、密かに城を脱出して、家康のところにかけつけて窮状を訴えました。あらかじめ家康は、織田信長 に援軍を要請していたため、信長はすでに3万の軍勢を率いて岐阜を出発し、岡崎城に到着していました。

長篠城にとってかえした鳥居でしたが、あいにく武田軍に捕らえられてしまいました。武田方は、「援軍は来ない」と大声で伝えれば助命してやると提案、これに鳥居は承諾しました。ところが鳥居は直前になって約束を破り「援軍は数日以内に来る」とどなったために、たちまち殺されてしまったというエピソードが伝えられています。

この「長篠の戦い」で武田軍は、信長・家康の連合軍に完膚なきまでにやられてしまい、多くの勇将を失いました。連合軍は、3000丁という数の鉄砲、さらに鉄砲隊を3つに分け、鉄砲の弾込めによるタイムロスをなくす三段撃ち戦法で、最強と呼ばれた武田の騎馬隊を破ったという、有名な通説があります。その規模や戦法はともかく、当時最大規模の鉄砲隊の投入、また騎馬隊を防ぐための馬防柵が効果を発揮したのは、まちがいなさそうです。この戦いによって長年の悩みであった武田家を抑えることに成功し、織田家は急速に勢力を拡大していきました。

いっぽう、武田家は、勝頼の下で再編成を強いられましたが、これに失敗。さらに上杉家や北条家との外交にも失敗して、1582年に滅亡してしまいました。( 2009年3月11日ブログ 「武田勝頼の自刃」参照)


「5月21日にあった主なできごと」

1927年 大西洋無着陸横断飛行…アメリカの飛行家リンドバーグは、前日ニューヨークを飛び立ち、この日の夜パリに到着しました。所要時間33時間30分、世界初の大西洋無着陸単独飛行でした。リンドバーグは、1931年には北太平洋を横断して日本にも到達し、大歓迎を受けました。

1928年 野口英世死去…世界的な細菌学者として活躍した野口英世は、アフリカで黄熱病の研究中に発病して、この日死去しました。( 2008年5月21日ブログ 参照)