今日3月11日は、400年にもわたり甲斐の国(山梨県)を支配してきた武田氏が、1582年に滅びた日です。

室町幕府の将軍のあとつぎをめぐる争いは、多くの守護大名をまきこみ応仁の乱(1467-77年)となりました。日本の歴史区分では、この応仁の乱から、1573年に15代室町将軍足利義昭が織田信長によって追放され、室町幕府が事実上消滅するまでの約100年間を、「戦国時代」とよびます。

その戦国時代に、戦国一の戦術家といわれた甲斐の武将・武田信玄は、訓練された武田騎馬隊を誇り、多くの大名たちを恐れさせるほど強力なものでした。武田勝頼は、1573年に亡くなった父信玄から家督を相続し、その遺志をついで京にのぼり、足利将軍をおしたてて、天下に号令をかけようと準備をしました。そして、1575年4月に大軍を率いて三河の長篠城を包囲、織田信長徳川家康軍と相対したのです。

しかし武田軍は、この「長篠の戦い」で、信長・家康の連合軍に完膚なきまでにやられてしまい、多くの勇将を失いました。連合軍は、鉄砲隊を、火縄銃の弾こめから発車までのタイムロスをなくすために3つのグループに分け、三段撃ち戦法を駆使しました。当時としては最大規模の鉄砲隊と、騎馬隊を防ぐための鉄砲隊前方に3重の馬防柵をめぐらす戦術に敗れてしまったのです。

それ以後、武田の勢力は急速に衰えはじめ、美濃や遠江でおさえたいくつかの城を家康に奪い返されて、勝頼は韮崎城に移りました。1582年になると、まもなく義弟に反旗をひるがえされたのがきっかけとなって、信長・家康軍は大軍をひきいて甲斐征伐を開始、挟みうちされた勝頼は、この日天目山のふもとで自害をしました。こうして、19代つづいた武田氏は滅亡してしまいました。