今日2月19日は、宇宙が太陽を中心として回転していると唱えた天文学者コペルニクスが、1473年に生まれた日です。

地球は宇宙のまんなかにあって動かず、太陽もほかの星も、みんな地球を中心にまわっている、というのが「天動説」です。16世紀はじめころまでは、そのように信じられていました。はんたいに「地動説」は、太陽が中心にあって、そのまわりを惑星がまわっているというものです。これをはっきり証明したのが、ポーランドの天文学者ニコラウス・コペルニクスです。

コペルニクスは、ポーランドのトルンという町に生まれました。10歳のとき父が亡くなり、おじルカスのもとにあずけられました。ルカスは教会の司教でしたので、コペルニクスも神父にさせようと、18歳のとき首都クラクフの大学にやりました。大学で、コペルニクスは神学や哲学より数学とか天文学にきょうみをもつようになりました。世界のなぞをときあかすような学問をしたいというのが、コペルニクスの夢でした。

コペルニクスはクラクフ大学を卒業すると、イタリアにいきボローニャ大学にはいりました。ここで、天文学者ノバラ教授の指導をうけ、科学的な天文観測をならいました。イタリアでは、パドバ大学とフェラーラ大学でもまなんでいます。ポーランドの故郷にもどってきたのは,1505年、32歳のときでした。

ポーランドに帰ったコペルニクスは、おじのルカスが司教をしていた教会の神父になりました。いろいろな大学で学問をおさめたコペルニクスは、医学や政治、経済の学者としても信者から尊敬されました。

いっぽうでは、まいにち天体観測をつづけ、天動説はどうしてもつじつまがあわないということに、確信を深めました。そして、観測の計算の結果を論文に書き記していきました。原稿は1530年ころに、ほぼできあがりましたが、コペルニクスは、これを本にするのをためらいました。ローマ法王の目がきびしい時代です。天地をさかさまにするような新学説をとなえることは、たいへん勇気のいることでした。

ある日、コペルニクスのところへ、レティクスというドイツの数学教授がたずねてきました。レティクスはかねてから、コペルニクスの研究を知っていました。そして、コペルニクスの部屋にあった原稿を読み、ぜひ出版するようすすめました。コペルニクスも、ようやく決心がつき、原稿を出版社におくりました。やがて、『天球の回転について』の学説は、これまでの天文学をいっきょに新しい時代へむかわせます。しかし、この本ができあがってきた日、1543年5月24日、コペルニクスは本のページをめくることもなく、70歳の生涯を終えました。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)5巻「ミケランジェロ・レオナルドダビンチ・ガリレオ」の後半に収録されている7編の「小伝」の一つ 「コペルニクス」 をもとにつづりました。約100名の伝記に引き続き、今週より、300余名の「小伝」を公開しています。

「2月19日にあった主なできごと」

1185年 屋島の戦い…源義経ひきいる源氏軍は、平氏のたてこもる屋島(現・高松市)が、干潮時には騎馬でわたれることを知ってわずかな兵で強襲を決意。この日、周辺の民家に火をかけて大軍の襲来と見せかて一気に攻めこむと、平氏軍はろうばいして海上へ逃げ出しました。こうして、平氏は瀬戸内海の制圧権を失い、一ノ谷、壇ノ浦の戦いを経て、源平合戦の大勢が決しました。

1837年 大塩平八郎の乱…大坂(現大阪)で大坂町奉行所の元与力大塩平八郎とその門人は、「幕府の役人の悪政や富商の莫大なもうけを攻撃する」と檄文をまき、多数の富商に火をつけ、大坂の2割を消失させました。乱そのものは小規模でしたが、江戸幕府の弱体ぶりを示した大事件でした。

1972年 あさま山荘事件… 連合赤軍のメンバー5人が、この日河合楽器の保養寮「浅間山荘」に押し入り、管理人の妻を人質に10日間にわたって立てこもりました。