今日8月25日は、ポルトガル人二人をふくむ100人以上も乗せた大きな船が、1543年九州の種子島に漂着し、日本に鉄砲を伝えた日です。

島の領主は、まだ16歳の種子島時尭(ときたか)でした。漂着船に乗っていた中国人と漢字で筆談したところ、嵐にあって難破、20日以上も漂流して、種子島にたどりついたことがわかりました。

難破船の修理をしているあいだ、ポルトガル人の二人は鉄砲をもって狩りにでかけ、沼辺でカモを撃ち落としたということを耳にした時尭は、さっそく二人を呼んで、鉄砲の威力をたしかめ、感心してしまいました。そして、鉄砲2丁をゆずり受け、2000両という破格の謝礼をしたといいます。

日本には古来から、刀鍛冶の製鋼・鍛錬技術がありました。時尭は、この技術は鉄砲の製造に応用できないかと考え、優秀な刀鍛冶に研究させました。その結果、ポルトガル人たちが半年後に島を離れるときには、新しく作らせた鉄砲が600丁もできていたということです。

こうして種子島銃(火縄銃)の製造は、種子島以外に、和泉国堺や紀伊国根来(ねごろ)、近江国国友など各地で生産され、戦国時代の影響もあり、量質とも急激に進歩して、30年後にはおよそ20万丁の鉄砲が存在していたといわれています。

伝来当初は猟銃としてでしたが、すぐに戦場で用いられるようになり、火縄銃から、早合と呼ばれる弾と火薬を一体化させる工夫がなされて、すぐに装填できるよう改良されました。実戦での最初の使用は、薩摩国の島津氏家臣による大隅国攻めといわれていますが、何といっても、戦国大名から、やがて天下統一事業を推進していた尾張国の織田信長が、1575年に甲斐武田氏との「長篠の戦い」で、1000丁以上もの鉄砲を有効に使って、武田軍を壊滅させたのが特筆されます。

こうして鉄砲は、戦争における主力兵器として活用され、弾丸をふせぐために厚い白壁の大きな城を築くといった城作りに変わり、戦国大名の統治構造にも大きな影響を与えていきました。

「8月25日にあった主なできごと」

1648年 母に孝養をつくし「近江聖人」としてその徳望が慕われた江戸時代の儒学者・日本の陽明学の始祖といわれる中江藤樹が、この日亡くなりました。

1830年 ベルギーの中心都市ブリュッセルの劇場で演じられていたナポリの独立闘争のオペラに刺激されて、ベルギーのオランダからの独立革命がおこりました。たちまち各地に運動が飛び火して10月に独立宣言がなされ、年末までにオランダをのぞくヨーロッパの列強は、ベルギーの独立を認めました。

1944年 北フランスのノルマンディー上陸に成功した連合国は、ドイツ軍と激しくたたかいましたが、この日フランスの首都パリに入るとドイツ軍は降伏、パリは解放されました。解放運動の指導者ド・ゴール大統領が凱旋門に現われると、パリ市民は熱狂的な歓声で迎え、パリは4年ぶりにパリ市民の手にもどりました。