今日7月17日は、江戸時代の中期、奥州白川藩主松平定信(まつだいら さだのぶ)が、若くして老中に抜てきされ、田沼意次(おきつぐ)一族の放漫財政を批判して、1787年に幕政改革を開始した日です。

1787年から1793年にわたって、「寛政の改革」 とよばれる江戸幕府たてなおしの、すぐれた政治がおこなわれました。松平定信は、この改革を進めた政治家です。

定信は、幕府8代将軍徳川吉宗の3男田安宗武の子として、1758年に生まれました。幼いころから学問をこのんだ定信は、陸奥白河藩主(福島県)の松平家へ養子に迎えられ、25歳で11万石の藩主になりました。

定信が、まず初めに、すぐれた政治家の力をみせたのは、このときです。ちょうどこのころ、全国に大ききん(天明の飢饉)が起こり、白河藩でも数えきれない人びとが飢えと伝染病で死んでいきましたが、藩主定信は、食糧を集め、倹約を奨励し、農業の改革につとめて、みごとに危機をのり越えました。

1787年、定信は、まだ29歳の若さで幕府最高職の老中の座につきました。それまで老中をつとめていた田沼意次の一族が政治の失敗で幕府を追われると、白河藩での政治と、教養ある人格がみとめられて、意次のあとの老中に迎えられたのです。

定信は、その年にわずか14歳で第11代将軍の位についたばかりの徳川家斉(いえなり)を助けながら、幕府のたてなおしにのりだし、まず、政治にたずさわる人びとをすっかり入れかえました。

つぎに、苦しくなっていた幕府の財政を豊かにしていくために、白河藩での政治と同じように農業の発展に心をくばりながら、やはり徹底した倹約を奨励し、物価があがるのを防いで人びとの生活が安定するように力をつくしました。大ききんのあとで、人びとの心に不安が残っていたからです。

また、農業をすてて江戸へでてきた人たちには、もういちど農業へもどることをすすめ、それでも江戸の町に失業者がふえると人足寄場をもうけて宿のない人びとを集め、手に技術を持たせてやるようにしました。いっぽう、武士たちの心も正させるために、各地に学問所を建てて学問や武術も盛んにしました。

ところが、生活がきゅうくつすぎると訴える武士や、物が売れないで困るという商人たちが現れ始めたと思うと、1793年、定信は、とつぜん老中をやめさせられてしまいました。自分の権力が強くなっておおくの敵をつくることをおそれていた定信は、このとき、心よく老中職をひいたということです。

そのごの定信は、ふたたび藩の正しい政治を進めたのち、年老いてからは自伝や随筆を書くかたわら、日本画も楽しみ、70歳で亡くなりました。老中として活やくしたのは,わずか6年でしたが、寛政の改革は長くたたえられました。

この文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 29巻「小林一茶・間宮林蔵・二宮尊徳」 の後半に収録されている7名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

なお、定信の 「寛政の改革」 があまりに厳しかったために、老中職をしりぞいた後、こんな落首(匿名のざれ歌)が出たのは有名です。

白河の 清きの魚の住みかねて もとの濁りの 田沼こいしき