今日2月28日は、織田信長や豊臣秀吉に仕え、わび茶を大成し、茶道を 「わび」 「さび」 の芸術として高めた千利休(せんの りきゅう)が、1591年、秀吉の怒りにふれて切腹を申し渡され、いさぎよく自害した日です。

天下統一をなしとげ、ごうまんな権力をどこまでもおし通そうとする秀吉と、たとえ命をおとしても、誇り高い芸術家として茶の湯を守ろうとした利休との闘いは、利休の死で終わりをつげました。利休は69歳でした。

利休の父の田中与兵衛は、和泉国(大阪府)の堺で倉庫業や魚問屋をいとなみ、屋号を千と名のっていました。そのころの堺は貿易港として栄え、商人たちのあいだでは茶の湯がさかんでした。本名を与四郎といった利休も、家業を手伝うかたわら、茶の湯に心ひかれながら育ちました。

利休は、10数歳の少年時代に、すでに北向道陳(どうちん)という先生から茶の湯を学んだといわれます。そして18歳のころには、名高い武野紹鴎(じょうおう)のもとへ弟子入りして、奥深い茶の湯の作法と心を少しずつきわめていきました。

紹鴎の茶は 「わび茶」 とよばれ、かざりけのないことと、落ちついたさびしさのなかの深い味わいを、たいせつにするものでした。利休は、さらにその中に禅の世界をとり入れることを考え、京都の大徳寺に入って禅の修行にはげみました。このとき髪をそり、与四郎の名を宗易(そうえき)とあらためています。

50歳をすぎたころ、利休は、茶の湯を教える茶頭として織田信長に仕え、信長の死ごは、豊臣秀吉の茶頭となりました。そして天下統一へ突き進む秀吉に、まるで影のようにつきそい、戦場に茶の湯の席をもうけて、秀吉や大名たちをねぎらうことも、めずらしくありませんでした。

1585年、秀吉が宮中で正親町(おおぎまち)天皇に茶を献じたとき、利休は、その茶会をりっぱにとりしきって晴れの舞台をかざり、天下一の茶の湯の宗匠とたたえられるようになりました。こののち、大名、武士、貴族、僧、町人たちが先を争って、利休のもとへ弟子入りしたと伝えられています。

ところが、この天下一が、最後にはわざわいのもとになってしまいます。秀吉のそば近くに仕えているうちに、いつのまにか政治さえ動かすほどの力をもち、それが、天下をとった自信にあふれる秀吉に、利休をにくむ心をめばえさせたのです。

腹を切ったときの利休のすがたは、どんな武士よりもりっぱだったといわれています。利休が、静かに死に立ちむかうことができたのは、茶の湯をとおして、芸術家として大成していたからです。利休によって芸術として高められた茶の湯は、そのご、日本人の生活文化として、ますます栄えていきました。

なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)24巻「武田信玄・織田信長・豊臣秀吉」の後半に収録されている7名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。