児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第35回目。

☆ ~~~~~~~~★~☆~★~~~~~~~~☆

● 知るよろこび、自然への愛、自分から学ぶ楽しさ
物語や童話は読まなくても、図鑑だけは好きだという子どもがいます。ところが、図鑑を見るのは読書ではないと思いこんでいる人が少なくありません。母親の集まりでも 「うちの子は図鑑は見るけど本は読まない。どうしたらよいか」 という質問が必ずでます。
図鑑は見るけど他の本は読まないというのは、読書に偏りがあると考えられがちですが、図鑑を見る、読む、利用するという行為は、物語や童話を読むのに比べて、その価値がけっして劣るものではありません。図鑑 (ここでは昆虫図鑑) を読んでの感想にふれると、そのことがはっきりわかります。
まず、昆虫図鑑を利用した子どもの多くが、初めて知った神秘的な昆虫の世界におどろき、「知らなかったことを知る」よろこびを自分のものにしています。自分で昆虫を飼うために、観察するために、あるいは観察から生れた疑問を解くために、その参考資料として図鑑を利用したという場合が多いようですが、自分の目で見ただけでは、とうてい気づき得なかった神秘な事実に、図鑑を利用したことによって初めて気づき 「こんなことだったのか」 「そうだったのか」 などと、胸をときめかせながら語っています。
昆虫図鑑は、子どもたちに、昆虫の世界への興味を深めさせるだけでなく、真実を知ることのすばらしさとたいせつさを、しぜんに学ばせているのです。
そして、その神秘的な世界に目を見張るうちに、昆虫たちのきびしい生と死にふれ、たった1匹の小さな昆虫からさえも、生きるものの生命の尊さというものを、深く感じとっています。
交尾後、なんの抵抗もせずに雌に食われて死んでいく、雄カマキリの宿命的な悲しさ。幼虫として生きた地中や水中での良い時期に比べると、成虫として生きる時間のあまりにも短い、セミやトンボの生命のはかなさ。すり鉢状に掘った砂の穴の底にかくれて、なん時間でも獲物を待ちつづけるウスバカゲロウの、生きるための持久力の強さ。このほか、生きるためのさまざまな知恵、きびしい自然とのたたかい、外敵とのたたかい。……子どもたちは、これらのことから 「どんなに小さな虫でも、どんなに目だたない虫でも、いっしようけんめいに生きている」 ということを学びとっています。
また、生命の尊さにふれたことによって、虫を飼っていた子どもの多くが 「あそび半分で虫を飼ってはいけないのだ」 「観察が終ったら早く山へかえしてやろう」 などと語っています。
「これまで、虫けらなんてと思っていたのは、まちがっていた。これからは、足で虫をふみころすようなことは、もうぜったいにしない」 というような思いやりを、しぜんに育てているのです。
さらに、こうして図鑑を利用した子どもたちは、わからないこと、ふしぎなことを自分で調べて、自分で問題を解決していくことの楽しさを学びとっています。
「ずかんでしらべて、あたらしいことがわかるたびに、ぼくは、やったぁ! わかった! とさけんだ」 「一つのことを調べるのに、こんなにむちゅうになったのは、はじめてだ」 「ずかんを3冊も4冊も借りてきて調べた。このけいけんを、わたしは一生忘れない」
「たった1冊のずかんが、わたしに、もっと知りたいという気をおこさせてくれた」 などと語っている子どもたち。
以上のほか、「図鑑はわたしに科学する心を教えてくれた」 「自然というすばらしい世界のあることを、わたしに気づかせてくれた」 と語っている子どもたちもいます。
こうしてみると、童話や物語とは違った、図鑑のすばらしさが、はっきりわかります。なかでも、自分から学ぶことの楽しさを教えてくれるということは、文学作品などからは得がたいことでしょう。図鑑を見ながら 「やったぁ! わかった!」 と叫んでいるこのとき、その子は、まさに読書のだいご味を味わっているのです。

10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第34回目。

☆ ~~~~~~~~★~☆~★~~~~~~~~☆

「片耳の大鹿」 椋鳩十作(ポプラ社刊)のあらすじは、次の通りです。
鹿児島県の屋久島……この島で、少年たちはシカ狩りの名人吉助おじさんたちと、冬の山へシカを撃ちに行きます。めあては鉄砲で片耳をもがれたシカの大将。ところが急にあらしになり、ずぶぬれになった一行8人はほら穴にもぐりこみます。するとそこには仲間をつれてあらしをのがれた大シカがいました。寒くてたまらない少年たちは、思わず、シカの群れの中へもぐって、冷えきった体をあたためました。そして、どれくらい眠ったか、ふと目をさますと、シカがいっせいに立ちあがって角をかざしました。でも、シカたちは、そのまま一列になってほら穴をでて行きます。先頭に立っていたのは片耳の大シカ。少年たちは片耳の大シカのおかげで命が助かったのでした……。

● 命の尊さと、シカと人間との心のかよいあい
この作品を読んだ子どもたち(小学4~6年生)は、大きくわけると2つのことに心を動かしています。まず一つは、命の尊さです。
「動物たちは、人間が想像する以上にいっしょうけんめい生きているのだ。ぼくはこの物語を読んで『生きる』ということは、人間も動物も全く変りがないのだということに気づき、これまで動物なんかと思っていた気持を心から反省させられた。これからは、ぼくの動物を見る目が変ってくると思う」
「片耳の大シカは、自分のためよりも、子孫のため、仲間のために死んではならない、生きなければならないと思っていたのではないだろうか。もしそうだとすると、こんな美しい生き方はない」
「人間は、へいきで人間以外の生きものを殺す。でも、それはほんとうにゆるされることだろうか。人間の命の尊さと、動物の命の尊さとはちがうのだろうか……」
子どもたちは、片耳の大シカの雄々しい生き方に心をうたれて、あらためて、命の尊厳というものを自分なりに考えているのです。しかも、人間の命も動物の命も、命には変りはないのだという原点に立って、考えようとしています。人間には人間以外の生きものを殺す権利があるのか……これはむずかしい問題です。しかし、この年ごろにこうしたことを考えたという経験をもつことは、子どもたちにとって大きな意味をもつことになるでしょう。
子どもたちが心を動かしたことのもう一つは、片耳の大シカを殺そうとした人間と、雄々しく生きる大シカとの、ふしぎなほどあたたかい心の交流です。
「大シカを殺そうとしてきた吉助おじさんや次郎吉さんは、大シカの、あまりにも強い生き方に負けて、いつのまにか、心のなかでは大シカをそんけいするようになっていたのだ」
「おじさんが、これまで銃をむけてもなかなかうてなかったのは、心のどこかで、大シカを愛するようになっていたのではないだろうか。きっと、大シカが好きになっていたのだ」
「片耳の大シカがほらあなをゆうゆうとでていくとき、半分は、おれを殺せるなら殺してみろと思い、半分は、きっと殺すことはないと、次郎吉さんたちを信用していたのだろう。シカと人間の心は通じあうようになっていたのだ」
「作者がいちばんいいたかったのは、シカと人間というよりも、いのちあるものどうしの心のかよいあいではないだろうか。作者は、きっと心のやさしい人だ」
子どもたちは、こんなことを読書感想文に記しています。作者の心をみごとに読みとっています。
「もしも大シカが人間だったら、ほらあなをでて行くとき、大シカと次郎吉さんたちは手をにぎりあって、おたがいに命をたいせつにして、これからは助けあって生きていくことを、ちかいあったのではないでしょうか」
これは4年生の女の子が記したものです。また、この物語から、人間の心のみにくさや、おごりを読みとったものもあります。15分もあれば読める短編の一つですが、これほどまで、子どもたちに勇気と感動をもたらすものは、めったにありません。

10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第33回目。

☆ ~~~~~~~~★~☆~★~~~~~~~~☆

「ちいさなきいろいかさ」(森比左志作 西巻茅子絵 金の星社刊)のあらすじは次の通りです。
お母さんに買ってもらったきいろい傘……なっちゃんは、この傘に雨にぬれていたウサギとリスを入れてやりました。そのつぎに、胴長のダックスを入れてやると、ダックスのぶんだけ、傘がつっつっつっとひろくなりました。そして、ひろくなった傘に、バクのおやこも入れてやりました。さいごに、びしょぬれのキリンも入れてやりました。やがて、雨がやみました。どうぶつたちはみんな森へかえって行きました。すると、かさはもとのちいさな傘にもどりました。家へかえると、お母さんが 「雨がふってたのにどこであそんでたの」 と聞きました。なっちゃんはこたえました。「あのね、あのね、いいことあったの」。

● 子どもを空想の世界にあそばせる
ぼくも、おかあさんにかってもらったきいろいかさをひろげてみた。「ぱちん」。大きなおとがしたけれど、大きくなってこなかった。
ぼくはよこにふってみた。かさどめのひもが、ぶらんぶらんとゆれただけ。こんどはうえしたにふってみた。ふわふわと、かぜがぼくのかおにあたってきた。かみのけがとびあがったけど、きいろいかさは大きくならない。
こんどはぐるぐるまわしてみた。でも、やっぱり大きくならない。なっちゃんのかさだったら、おかあさんもおとうさんもいれてあげたいな。おかあさんだとぼくより大きいから、だっくすくんがはいったときのようにひろくなるかな。おとうさんはのっぽだもん。きりんさんがはいったみたいに、かさのえがにょきにょきのびていくのかな。
がっこうへもっていって、せんせい、ともだち、みんないれてあげたいな。大きな大きなかさに、みんないっしょにはいって、まちへでていったらどうだろう。あるいている人、なんだろうとあつまってくるかな。じどう車はとまって、うんてんしゅさんは、にこにこ手をふってくれるかな。たのしいだろうな。そんなかさを、ぼくもいっぺんもってみたいな。
これは小学校1年生の男の子の読書感想文です。
この『ちいさなきいろいかさ』を読んだ子どもたちはみんな、これと同じように 「わたしも、こんなかさがほしいな」 「こんなかさがあったら、たのしいだろうな」 という感想文を書いています。
また、3~5歳の幼児に読み聞かせると、きまって 「お母さん、わたしにも、きいろいかさかって」 と言いだします。きいろいかさを持っている子は、さっそくもちだしてきて広げます。このお話が、みごとに子どもたちの夢を、純粋に誘うからでしょう。子どもたちを、文句なしに夢の世界にあそばせるからです。
ところで、ウクライナの民話をもとにした 『てぶくろ』という絵本(福音館書店)があります。人間が森の中に落とした片方の手ぶくろ。この小さな手ぶくろの中に、ねずみ、かえる、うさぎ、きつね、おおかみ、いのしし、くまがつぎつぎにもぐりこんでしまうという奇想天外なお話です。『ちいさなきいろいかさ』は、この『てぶくろ』の日本版といってよいのかもしれません。ちいさなかさに、少女と、うさぎと、りすと、だっくすと、ばくと、きりんが入るというのはやっぱり奇想天外です。しかし子どもは、それをけっしてありえないことだとは思わないで、胸をおどらせるのです。
この『ちいさなきいろいかさ』を読んだ子どもたちは、雨の日には、かならずこのお話を思いだすでしょう。そして、自分の小さなかさの中に、心にえがいた動物たちを入れて、あるいは、心のなかに語りかけてくる先生や友だちを入れて、あたたかい空想の世界を楽しむでしょう。
多くの親は子どもに空想の世界を楽しませることのたいせつさを、知っています。しかし、それを実際に口で伝えることは、たいへんむずかしいことです。ところが、たった1冊の本が、それを伝えてくれるとしたら、こんなすばらしいことはありません。

なお、「ちいさなきいろいかさ」「てぶくろ」は、「えほんナビ」のホームページに紹介されています。
ちいさなきいろいかさ http://www.ehonnavi.net/ehon00.asp?no=2488
てぶくろ http://www.ehonnavi.net/ehon00.asp?no=192

10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第32回目。

☆ ~~~~~~~~★~☆~★~~~~~~~~☆

「おおきなきがほしい」(ぶん・さとうさとる/え・むらかみつとむ 偕成社刊)のあらすじは次の通りです。
かおるの家の小さな庭には、3本の小さな木しかありません。木のぼりもできません。……もしも大きな木があったら、太い幹にもはしごをとりつけて、枝の上にかおるのこやをつくって、こやではホットケーキをやくんだ。木には、リスや小鳥たちがいて、みんななかよし。木のてっぺんの見はらし台からながめると、ずっと遠くまで見わたせて、とってもいい景色……。かおるの夢はどんどんふくらんで、大きな木の絵ができました。そしてつぎの日曜日、かおるは、お父さんと庭に、大きくなる木の苗を植えました。

● どこまでも夢をふくらませることの楽しさとすばらしさ
この本を読んだ子どもたち(小学1~2年生) は、読書感想文のなかで、いちように自分の夢をふくらませています。それは、「ほんとうにそんな大きな木があったら、どんなにすばらしいだろう」 「そんな木があったら、ぼくなら、こんな家をつくりたい」 という夢です。
「ねっこのところにドアがあって、〈ぼくだよ、こうじだよ〉と言うと、ドアは、しぜんに上へガシャっとあがるんだよ」
「かおるちゃんの、おうちは、はしごだけど、ぼくは、ぼくのうちから、コンセントででんきをとおして、エレベーターをつくりたいなあ。木のみきのなかを、スィーッと、てっぺんまであがるんだ。もちろん、リスやとりも、いっしょに、のせてあげるんだよ」
「わたしの大きな木は、右がわのえだには、年じゅう、くだものがいっぱいなるの。はるは、いちごやもも。なつは、大きくてあまりすいか。あきは、おとうさんのすきな、かき、なし、ぶどう、くり。ふゆは、おかあさんの大すきな、みかん、りんご。それから左がわのえだには、はなが、さくのよ。はるは、なのはな。きいろのはなのまわりには、もんしろちょうが、いっぱいとびまわっているの。なつは、ひまわり。あきは、きく。ひとやすみしていると、とってもいいにおいがするのよ。ふゆは、ゆきのように白いはな。さわると、とっても、つめたいよ」
「ぼくのへやには、マンガの本がいっぱいあるんだ。きっと、リスも、ことりも、よみにくるよ。そしたら、ぼくがホットケーキをつくって、みんなとたべながら、なかよくよむんだ」
「ぼくの大きな木は、かおるちゃんのよりも、もっともっと、たかいんだ。いつもゆれてて、すこしこわいけど、とっても、いいことがあるんだよ。それはねえ、木のまわりへあそびにきた白いくもに、ぼくのこやのまどからのって、とおくへ、あそびにいくんだよ。ことりやリスも、いっしょにのせて、ホットケーキをもってね」

いかがですか、とっても楽しい夢ではありませんか。
この本を読んだ子どもたちの感想の多くは、物語の主人公のかおるちゃんからは、はなれています。そして、ぼくの大きな木、わたしの大きな木のことばかり、楽しく語っています。しかしそれでいいのです。この本にえがかれているかおるちゃんの夢に、心から共感したからこそ、ぼくも、わたしも、自分の大きな木の夢をえがいたのですから。つまり逆に言えば、この1冊の本には、すべての子どもたちに自分の大きな木の夢をいだかせるほどの、文学的な豊かさがあるということです。空想の世界ほど、子どもの心を豊かにするものはありません。同じ1本の木に、かきも、みかんも、すいかさえもならせるように、空想の世界は子どもたちの心を、限られた現実の世界から大きくとび出させます。そしてそれは、自分の心で新しいものをつくり出す、創造にほかならないからです。
この『おおきなきがほしい』は、3~4歳の幼児に読み聞かせても、目をかがやかせて聞き入ってくれます。砂場で山や川やトンネルを作って遊ぶように、子どもにとっての空想の世界は、文句なしに楽しいものだからです。
「わたしのうちはアパートなので、おおきな木は、うえられません。だから、がようしを12まいもつなげて、おおきな木のえを、かきました」 という子どももいます。この子はその絵をかべにはって、いつもいつも、小鳥やリスたちといっしょの空想の世界を楽しんだのではないでしょうか。山や野の1本の大きな木を見て、特になにも感じない子と、そこに空想の世界をえがける子……このちがいには、はかりしれないものがあります。

なお、この絵本「おおきなきがほしい」は、「絵本ナビ」のホームページでも紹介されています。
http://www.ehonnavi.net/ehon00.asp?no=1939

5月14日から23日まで、海外旅行のためブログを休みます。悪しからず、ご了承ください。

↑このページのトップヘ